ダウン症児とHSP娘との暮らしのブログ

HSPだと思われる娘とダウン症児の息子と暮らしています。多くの気づきを得られる刺激的な毎日なので、忘れちゃもったいないな・・・と思って綴っているのですが、年々綴るのが遅くなっています。子どもらが育つということは親が年を取るということ。指が動かん・・・。

ダウン症

先日、ダウン症も治療可能に?という記事がヤフーにあがっていたので、記録しておきます。

ニュース記事って記録しとかなきゃ、なくなっちゃうんだよね。今までもダウン症の治療についての記事があがったりしたけど、進んでいるのか、立ち消えたのか・・・。これまであがった治療方法はうまくいってないって事だよね?

どうだったかまで報道してくれるといいんだけどなぁ・・・。

ニュースにあがっていた記事内容は、21番目の染色体が3本あるという事の弊害や、ダウン症についてこんな研究を今行っているという事を紹介した記事でした。↓以下ヤフーニュースより・・・

ダウン症・・・21番目の染色体が3本あることでおこる事は・・・

ダウン症は、21番染色体が1本多い3本あることで発症する。
21番染色体には約300の遺伝子があり、遺伝子の働きが1・5倍になることで、様々な症状が表れる。

21番染色体には、血液の増殖にかかわる重要な遺伝子がある。
そのためダウン症の赤ちゃんのおよそ10%には、「一過性骨髄異常増殖症」という白血病のような合併症がみられる。

40代以降にアルツハイマー病を発症する人も・・・。
21番染色体にある「APP」という遺伝子によって、アルツハイマー病の発症にかかわるアミロイドβが、脳内にたまりやすいため。

脳内の神経細胞が少ない一方で、神経細胞の働きを支える「アストロサイト」という細胞は多い。
21番染色体にある「DYRK1A」という遺伝子の働きが強まっていることが原因とされる。

ダウン症の研究

大阪大学の北畠康司准教授(小児科学)の研究チームは、ゲノム編集により神経症状を改善することをめざしている。難しいのは、ダウン症の人では神経の発達に関するDYRK1A遺伝子が過剰に働いているが、逆に遺伝子の働きを抑えすぎると、自閉症のリスクにつながることだ。北畠さんらは、ダウン症のある人から作ったiPS細胞を使って、遺伝子の数を正確に減らす技術の開発に挑戦している。

海外の研究。
2016年には、茶のカテキン成分で認知機能が上がったという研究結果が報告された。

3本ある21番染色体のうち、1本の働きを丸ごと抑える技術の開発も進む。

大人のダウン症

ダウン症のある人は、およそ15~30歳の頃に、話さなくなる、動かなくなる、好きだったものに興味がなくなるといった「退行様症状」が出ることがある。

米国の研究チームは、「免疫グロブリン」を投与することで、こうした症状が改善するという結果を発表した。今年から臨床試験を始める。

ダウン症は、5世紀頃から存在していたらしいけど(こちらの記事を読みました)、そこから21世紀まで治ってない・・・。

ダウン症の研究が進まなかった理由

「自分の子がダウン症だと知ると、治療法がないことや将来に対する情報が少ないことから、ほとんどの親は漠然とした不安を抱える」
「医療者もダウン症のことを知らない人が多く」

という理由からこれまでは研究が進まなかったと、ヤフーニュースでは書いていたけども、そうなのかな?

ダウン症の保護者的には、すごく勉強している人増えてきていて、今、前向きな人いっぱいいます。

ダウン症の情報、私が息子を産んだ頃は、まだ少なかったけど、今はたくさんある。ネットのおかげもあるのかな・・・と、思ってます。

医者がダウン症を知らない人がいるってのは、ちょっとわかる。いろんな病院を渡り歩いた時、障がい児をよくわかってない医者は結構いました。

しょせんあたしら、保護者は障害に寄り添うしかできないので、研究してくれる人がたくさん出てくるといいなって思ってる。

自閉症が治る?という動画を見ました。

かなり前だけど、Youtubeのワンダーウォールというチャンネルで、ジョゼフ・ティテルさんの予言を訳している動画を見ていたら、「自閉症の治療法がでてくる」という事が予言されていました。(動画はこちら
wander-chan
wander-chan2
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これって今、研究されているのかなぁ?
それともティテルさんの、夢、まぼろし?

ダウン症の息子も治ってほしいけど、自閉症、発達障害の子たちも、もっと自分の力が自分自身で使えるようになったらいいなぁ・・・。

障害を持っていると、自分の力を自分で使えない。

ここが私たち親がもどかしく思っているところです。



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息子の歯科医院選びは大変。

幼児期から行ってたのは普通の歯科医院。
検診を受けていたのですが、障がい児はあんまりよく思われないらしく、嫌み言われてなんか行きづらくなってしまいました。

次の医院も普通の歯科医院を選んだのですが、しばらく通ってたけど、障がい児の面倒はもう見られないと、途中で障がい者歯科センターを紹介されました。

紹介された歯科センターに行ってみると、自宅から遠く、とても通える距離じゃなかったんで、自分でネットで調べて選びました。

他県にある、ダウン症のカウンセリングを行っているところに、併設されて歯科診療所があったので、連絡を取ってみました。

最初に「障がい者にとって歯科診療がいかに重要か講習」みたいなのがあって、しかもちょっと遠かったのですが、通えますか?と聞かれて、他に行くところがなかったため通う事を決意しました。

普通の病院に受け入れてもらえなかったので、その時はちょっとうれしかったな。


通い始めたのは、小3から。
その頃はまだ乳歯がたくさんありました。

乳歯が生えるのも遅かったけど、乳歯が抜けるのも遅かった。
つ~か、乳歯自力で抜けてくれなくて、結局全部抜歯しました。

最後の乳歯の抜歯が終わったのが中3。

永久歯、6歳臼歯は普通の子より少し遅いかなって感じだったけど、まぁまぁ生えてくれた。前歯の上下から永久歯が生えだしました。犬歯あたりが一番生えてこなかった。乳歯も犬歯あたりが生えてこなくて心配しました。

犬歯って生えづらいんかなぁ・・・。

生え変わりでは、乳歯が抜けなくて永久歯が生えるスペース確保できない~って感じで抜歯を繰り返しました。とりあえず永久歯が歯茎から見えたら、乳歯が抜けるのをずっと待ってるのですが結局抜けない。動かしてもびくともせん~って感じで抜歯。

抜くと、ちゃんと歯根は吸収されたのか歯根なかった。なんでぐらつかなかったんだろ?
basshi
乳歯の抜歯は様子見ながらやってたので、普段の診療は歯ブラシ指導だけ。虫歯がなかったので治療もなかったです。

染色液で赤く染めて、染めたところを歯ブラシって感じだったので、最初は嫌がっていたのですが、だんだん慣れてきた息子でした。泣いたり暴れたりはせず、温和な診療風景だったのですが・・・。

年齢がアップして歯の汚れもしっかりしたものになってきたからか、超音波スケーラーでの歯垢落としが始まりました。

その超音波スケーラーの際、暴れるので、ネットに入っての診療になり、いずれ慣れる、慣れたらネットを外そうと思っていたのですが、全然慣れませんでした。

慣れるどころか、力が強くなって、巻いているネットが緩くなってしまうほど身体を揺らして暴れるようになってしまった・・・。

(↓歯科診療について書いてます)



これは慣れない・・・と、思ったので、他の医院に転院をと何回も考えましたが、せめて全部永久歯になってから~と考えて我慢していました。

高1になってやっと永久歯ばかりの生活に・・・。でも超音波スケーラーの洗礼は続いていて、暴れるので、だんだん歯科衛生士や歯科助手の人から疎まれるようになってきました。

そして、「いいかげんに慣れろ!」と暴言を吐かれる日が出てきました。

そこで、私の心が折れたんで、地域の障がい者歯科センターに移ることにしました。

最初に普通の歯科医院がもうだめだ~って時に、地域の障がい者歯科センターでもよかったのですが、利用者が多すぎて、なかなか予約が取れないんで、よく面倒を見てくれるところが欲しかったので今のところにしたのです。

でも、いくら行く回数が多くても、疎まれているのにもう通えません。

なので、市役所で障がい者歯科センター利用の手続きをしました。(私が住んでいる自治体では、市役所で手続きして、初回予約は市役所の人がとってくれるようになっていました。)

地域の障がい者歯科センターに行ってみると、とてもやさしく案内してくれる衛生士さんがたくさんいたのですが、息子は診療室に入ってくれませんでした。

入ってもらうためにいろいろ言葉を添えたり、なだめすかしたり。最終的には好きな音楽かけていいからと、iphoneを渡すと入ってくれました。

初回の診療は歯磨きのみでした。それ以上できなかったし、今後もさせてくれるのかな~って感じでした。

その後、歯科衛生士さんと、息子がこんな性格で、こんな治療を嫌がるとか打合せをして次の予約を取りました。

先生は「こういうふうな事したいけど、させてくれなそうだよね・・・」ってちょっと不満そうだった。

すみません・・・。


前の障がい者歯科センターの先生は、いろんな先生に変わったりしていました。転院したセンターも、もしかしたら先生次々変わるのかも。

推測だけど、障がい者歯科センターって、手が空いている先生が入ってくれるというスタイルになっているんじゃないかと思います。

転院した歯科センターでうまく診察できるようになるといいけどなぁ

今までの障がい者歯科センターには、近所のセンターに行きますって言ったら「あっそう」「じゃあそこで診てもらって」って感じで捨てられた~って感じでした。

そんな所も最初はやさしく「そのうち慣れますよ」って言ってもらってた。超音波スケーラーでの歯垢除去が開始されるまでは良好な関係でした。でもスケーラーに慣れなくてだんだん疎まれるようになって、最後は「よそで慣れるかしら?」ってニュアンスの言葉を添えられ、「よそで診てもらえるならそうして」って感じで終了

どうしても嫌なことは嫌っていう息子なので、病院選びはほんとに困ってます。

診察拒否はしないけど、先生やスタッフさんからは嫌みはいっぱい言われるんで・・・。

でも行かないわけにはいかんので、病院側からどんな事を言われようが、どんな態度を取られようが一緒に行ってあげるしかない。

息子も、我慢ができるようになるといいんだけどな。

せめて暴れないでくれ~。




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先日、16歳になった息子。

靴のサイズがやっと22センチになりました。

ダウン症、成長がゆるやかという特徴があります。知的な成長も緩やかですが、我が家の息子は身体の成長もかなり緩やかです。

今身長はやっと150センチくらいです。体重は40キロくらい。

普通の高校生、平均身長168.2、体重体重60キロくらいらしい。今の息子は身体的には小6~中1くらいです。

なんか、伸び率がすごく少ないのです。足のサイズもなかなか変わらない。22センチまでくるのに16年かかってしまいました。普通の高校生の足のサイズは23.28~24.34cmなのだとか・・・トホホ

中学生卒業のタイミングで、そろそろ紐靴にしてあげたいなぁと思っていたのですが、あと0.5足りなくて、高1冬の段階でやっと紐靴に。紐靴ってたいてい22センチからなんですよね。


幼児から小学生までは靴に気を使っていました。
足首が固まってなくて、足の親指と人差し指の間がみょーに空いているという特徴を持っています。
ashinoyubi
ダウン症児は筋肉が柔らかいので、筋力の弱さを補うために親指を開き、常に力を入れバランスをとっているんだとか・・・。

↓のようなハイカットの靴を選んで履いていました。障がい児御用達?足首が弱い子はこの靴がいいって病院の先生にも勧められるからか、私の周りの子たちはこの靴を選んで履かされていました。(足首を固定できる靴がいいらしいです)


でも、この靴、すっと履けるものではない。息子の場合、片足で立つのが難しかったので、いちいち靴を履くのに座らないといけなくて、ハイカットの靴ってサクッと足入らないし、マジックテープ2本も締めないといけない。夏は足裏が暑苦しそうです

かわいそうだなってずっと思ってた。中学生になって、そんなに足弱くないって感じになったので、マジックテープ1本の靴に変えました。

今度は足がなかなか大きくならなくて、やっと紐靴にこぎつけたのですが・・・。

紐靴は、紐を自分で結べないので、ほどけた時が不安なのですが、マジックテープは高1なので、子どもっぽくてなんだかかわいそうだなって思ってました。

やっと22センチの靴のサイズになって紐靴にするぞ~と、私がうれしかったのですが、

旦那は、

え?紐靴履いてなかったっけ?

とか言う・・・。

履いてね~よ!つ~か、自分の子どもが紐靴履いたことなかったのを知らなかったの?

と、ちょっとむかっとしました。

息子的には、紐靴かマジックテープかはあまり問題ではなく、履き心地の方が問題みたい。

今回買った紐靴は履き心地が悪くなかったみたいで、機嫌よく履いてくれてます。

紐靴か、マジックテープかにこだわっていたのは実は私だけ・・・


なんか、成長したなぁって涙してたんだけど、みんなどうでもよかったんだなって思いなおしたら、冷静になった。

年齢でできる事を区切って考えると、どうしてもこの年齢でこれができない、あれができないになってしまうのですが、

年齢を考えてなければ、そんなことは気にならない。

という、基本を忘れてたぜ!

ダウン症児はゆっくりさんなので、年齢でできる事を区切る、というのを息子の幼児期に捨てた私。

これからも、ゆっくりのんびり生きていこう!

年齢で成長を考えると、追いつかなくてキリないんだよね、ダウン症って・・・。



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小学校からずっと、学校を早退して病院に行くという事を度々しています。

我が家のダウン症児、身体の調子が低空飛行です。はたから見ると、健康そうに見えると思うのですが、幼児期から小学生くらいまで、発熱頻繁でした。

ウイルスや細菌に弱いのだと思うのですが、溶連菌やなんだかわからない病気が多く、その病気の後に鼻水が出るので、耳鼻科通いになってしまいます。

鼻をかむのが難しく、しょっちゅう中耳炎になってしまって、今は慢性化して何年も耳鼻科通い。ちょっと大きめ病院の中の耳鼻科に通っているので、外来診察時間が短いです。

なので、学校早退して病院へ行くということになってしまうのです



先日は、通院のため、学校へ午後いちで迎えに行くと先生に連絡していました。

それなのに、午前中、急に市役所から呼び出しがかかって、役所の件が片付いた~と、ほっと一息ついたら、迎えに行くのを忘れてしまって、家に先生から「今日通院だったのでは?」と電話がかかってきました。

そうでした~。すっかり忘れてた~。


ころっと忘れていた自分が怖い。もともとそう緻密な性格じゃなかったけど、年々、ぽんっと抜けたりすることが多くなってきました。

息子と一緒に歩く時も、私より息子が早く歩けたりして、

待って~。ゆっくり行こうよ~。

と、私が言わなくてはならなくなってきました。

息子の成長は喜ばしいけど、私の成長は喜べん!私の成長は老化だも~ん。

障がい児を育てる上で、一番必要なのは、体力と記憶力?

障がい児を育てている先輩たちが、福祉施設まで、お迎えに行ってたりするのを見かけたりするのですが、その先輩方は、身体が曲がっていたり、杖をついていたり・・・。障がいを持っている息子や娘はピンピンしてるのですが、子ども達は、まっすぐ歩くのが難しかったり、車や人などにぶつからないように気をつけないといけない子達なので、手つなぎ大事。ちょっと歩くだけでも気を抜けない~。

自分の身体がしゃんとしてないと、手つなぎしても共倒れになっちゃう

私、その方向に向かってる~?
確実にその日は近づいていると感じます。
いつまで頑張れるのかな~と思いつつ、「ダウン症治る」もちょっと期待している私です。


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我が家にダウン症児がやってきた日のお話です。
私は妊娠しやすいタイプじゃなく、長女が生まれた時、

神様、ひとりでも私たちのもとへ子どもを連れてきてくれてありがとう

と、思ったものでした。

なので、
2人目がその後すぐ来てくれるとは思っていなくて・・・
1年後、ホントにすぐやってきてしまいました。

■妊娠初期
息子は私のお腹の中で、すくすく育ってくれました。
私も体重管理もそこそこできて、特に問題もない妊娠初期時代でした。

当時、出生前診断は羊水検査とトリプルマーカーという検査で、新出生前診断はありませんでした。

通っていた病院のドクターは命の尊厳を大切にする先生で、出生前診断を勧めない方針だったので、出生前診断について言われることはありませんでした。言えばしてくれたと思うのですが、院の方針や、娘がまだ生まれたばかりだったことで、なんだか言う方向ではなかった、というのが妊娠初期時代の様子です。

今思えば、これが運命の分かれ道?だったのかも。


もしかしてここで、出生前診断をしていたらどうなっただろう?と、思うこともありますが、今では、我が家に息子が来てくれてよかったと思っているので、検査しなくて良かった、と、心から思っています。

■妊娠中期
息子はよくお腹を蹴る子で、お腹が張って痛かったです。娘の時は、ひたすらじっと我慢してその日(この世に出てくる日)を待っているような感じでした。

早く出せ~


と蹴っていたのかもしれません。

その他、長女と違ったエピソードは、なかなか性別が確認できなかったこと。

病院に診察にいった時など、エコーでお腹の中を見ているドクターに性別を聞くたびに、「隠れてわからないんだよね~」というのが何度もあって、わかったのは、出産予定日にかなり近くなってからでした。今考えると息子は「ダウン症」というアイテムを持って生まれてくることを、私に隠したかったんじゃないかな~なんて思っています。

この頃、娘の方が大変だったです。母乳しか飲んでくれなくて、息子のために卒乳したかったのですが、あまりにもミルクを嫌がったので、産婦人科の看護師さんと相談して、ぎりぎりまで母乳をあげることにしました。私は母乳が出るタイプではなかったので、これが結構つらかったです。

今思えば、母乳を卒業したくなかった娘は、息子に

お母さんは渡さない


みたいな感じだったのかなぁ・・・?

■出産直前
出産日も押し迫ったある日、前期破水という症状?スーパーで買い物していたら、下から水が・・・。

慌てて病院に行きましたが、その時は、まだ大丈夫だと思うから、あまり動き回らないように・・・とのことで帰宅しました。
しかし、0歳の長女の世話もありますし、動き回らないは無理!

ある朝、私は、夢を見ていました。お腹の子が自分で胞衣?みたいなのをピッと割る夢でした。
起きたら、パンツが濡れていて、病院に駆け込み、入院決定となってしまいました。

2週間ほど入院しましたが、もうもちそうにないから産もう、ということになり、妊娠促進剤で出産という運びになりました。

入院中、破水したくせにわりと元気だった私は、妊娠促進剤投与の後、再放送をやっていた「ひとつ屋根の下」を「わ~やった~見ようっと」と、ウキウキしていました。

しかし、その矢先、陣痛が~(>_<)

えええ~?今?せっかくテレビ見ようと思っていたのに~妊娠促進剤効くの早すぎる~

と考えていた呑気な母への息子のいやがらせじゃないかと思ったりしてました。

促進剤~陣痛~出産の運びは早かったと思います。昼過ぎくらいに促進剤投与だったのですが、それからしばらく休んでて~といわれ、テレビを見ようとした16時少し前に陣痛。そして出産は17時くらいでした。「ひとつ屋根の下」を見てゆっくりしているハズだった時間に、陣痛で私は吐きまくり、旦那は病院に呼ばれ、私の背中をさすらないといけないハメに・・・。

旦那は、

出産には立ち会わんからな・・・


と言うタイプ。私もべつに、

いいよ~


てな感じだったのですが、運の悪い奴なのか、長女の時も、なぜか旦那が休みの日で、しかも出産時そばにいさせられて、出産場面を見る羽目になり、

今回は、病院から召喚命令~。陣痛で苦しんでいる間、なぜか私は吐き気を催すタイプで、ゲーゲー吐いたもんで、呼ばれたのかも。看護師さんから、「背中さすってあげて!」

と、命令されていました。

■出産
さあ出産という時は、産科、小児科のドクター、看護師さん、たくさんの人が、足元にいっぱいでめっちゃ恥ずかしかったです。旦那は娘と一緒に別室にいてくれたみたい。

陣痛~出産までの時間は1時間ほどで、吐きまくったけど、時間的にはそんなに長い時間じゃなかったです。

出産じたいもころっと出た、といった感じで出産できました。

しかし、出産した後の、ドクターの行動が・・・。

娘の時は、カンガルーケアとかしてもらえたのですが、息子はささっと連れていかれてしまいました。34週で出ちゃったので、しかたないけど、なんかさみしかったのを覚えています。

その後、息子は保育器直行、私は出血も多かったので、大人しく寝てろと病室へ直行。

しばらくして、病室へドクターがやってきました。そこでダウン症だと思うと伝えられました。

「顔をみたらダウン症の特徴の顔をしているから検査した方がいいと思う」


と、先生は言っていました。

ダウン症の顔ってどういう顔よ!


と、怒りたくなったけど、言われた事が衝撃的すぎて、「検査お願いします」としか言えませんでした。

■染色体検査の結果が出ない
検査結果がなかなか出なくて、結局私の退院の日までは出ませんでした。つ~か、息子の退院日にも出てなかった。1ヶ月くらいかかりました。(私は1週間ほど、息子は2週間入院でした。)

その間、不安で、不安で、ダウン症の特徴とは?と、入院中も、退院後もずっと調べていました。その頃は、スマホもなかったし、インターネット内の情報も今ほどたくさんなかったです。でも本の情報の方がすごく古くて、ネットの情報の方が新しく感じました。

その時、調べたダウン症の特徴は・・・

  • 目が吊り上がってる。
  • 目と目の間隔があいている。
  • 手相がますかけ線。(猿線というそうです)
  • 身体がやわらかい。
  • 耳、頭、口が小さい。
  • 手の小指が短い。
などでした。

先生はダウン症の顔ってどこを見て思ったんだろう?


とも考え、モンモンと過ごしました。

■ダウン症だと知ったのは封書での検査結果
検査結果は封書で届きました。
sensyokutai1


検査結果
【染色体異常が認められました。】
検査コメント
【トリソミー21を認めました。】

と、書かれてあり、中には染色体の写真も入っていました。
Down's syndrome2


赤ちゃんのベテランの先生の言う通り、息子は「ダウン症」でした。

■障がい児出産は離婚危機?
先生からダウン症だと思うと伝えられた時、旦那にどう伝えたら?とか、伝えて「離婚」とか言われたらどうしよう」とかぐるぐる頭の中を回りました。でも伝えないわけにはいかないので、素直に言われた事をそのまま伝えました。

離婚と言われるのが怖くて、その後に、


離婚する?


と言ってしまったのですが、

なんで?ダウン症だったのは仕方ないさ。


とあっさり言ってくれました。
「ダウン症」を一番に受け入れてくれたのは、産んだ「私」ではなく「旦那」でした。このことが私はすごくうれしくて、ここから私たち家族が始まった・・・と、今でも思っています。

■障がい児育児の始まり

今考えると、「なんで離婚なんだ~?」と情けなく思っていますが、この時は思考がおかしくなっていた気がします。

生まれた子が障がいを持っていようといまいと受け入れようって思うのは、私にとって結構難しかったです。でも、障がい児育児が始まるとなってしまうと、受け入れざるを得ないので、最初は見切り発車って感じでした。

この先々、たくさんの受け入れがたい事も起こるのですが、だんだんとそれを「面白い」と、思えるようにもなってきました。

↓保育器生活から脱出できた日に看護師さんに撮ってもらいました。(この頃、写真はそう頻繁に撮るものではなかった・・・スマホもなかった(^^;))
Down's syndrome

ちょっと人とは違う育児だけど、いいじゃないって思いながら、家族で楽しもうとここに書いています。


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